遺族は納得していません。 通知が守られず事故が発生したこと、それが問題視されていないこと、そこに対策がないまま再発防止策が作られること。

ただ泣いているだけでいいと...

息子のことを想ってただ泣いているだけでいいと思っていました。

死んだ息子のことを日々想い、今でも悲しみや喪失感に押しつぶされないように耐えて生きていくだけで精いっぱいです。それを耐え忍んでさえいれば、事故を起こしてしまった人や組織が事故の重大さをしっかりと受け止め、何ごともうまく運んでくれるものだと信じていました。
しかし、事故発生後に頭に描いて信じていたことはことごとく裏切られ、何を信じてよいのかもうわかりません。

信じていたこと

  • このような重大事故を起こした責任を明確に認め、事故を起こした組織のトップから真っ先に謝罪があるものだと信じていました。
  • 責任の所在が明らかになり、事故に携わった関係者それぞれから謝罪をいただけるものと信じていました。
  • 関係者には厳正に懲戒処分がなされ、今後の学校の安全管理に緊張感をもたせる原動力になると信じていました。
  • 責任者を明確にした事故対策チームが発足し、事故原因調査から再発防止策や生徒へのケアなどの施策を一貫して取り組んで頂けるものだと信じていました。
  • 事故を起こした組織が自ら事故を総括し、事故の反省と何を改善すべきなのか自ら考え、組織改革が行われると信じていました。
  • 事故の反省から具体的でしっかりとした再発防止策が策定されると信じていました。
  • 再発防止策には事故の教訓が盛り込まれ、事故の当事者と山岳関係者の声を積極的に取り入れ、厳しくかつ実践的なものになると信じていました。
  • 積極的に外部指導者を活用するなど、この事故をきっかけとして部活動のあり方を変えるような取り組みがなされるものと信じていました。
  • 登山活動を再開する際は、事故の内容や過去からの経緯、反省点、これからの再発防止内容をしっかりと説明していただけると信じていました。
  • これらの施策を率先して実行し、具体的な施策・態度からこのような痛ましい事故を2度と起こさないよう誓っていただけるものだと信じていました。
  • 「十分な対策と謝罪で反省されていることは伝わりました。その反省と対策を絶やさないよう次の世代まで続けてください。」そう言っていつか息子の冥福を祈りながら、それでも平穏で前を向くことのできる日が訪れると信じていました。

現在の思い

信じていたことはなにもなされていません。

8名もの命が失われています。
息子たちの命があまりにも軽く扱われてはいないでしょうか?

ずっと私たちになされてきたあいまいな言葉や態度は、何かを守ろうとしているためのように思えます。一体何を守ろうとしているのでしょうか?私には理解することができません。

8名の命を差し置いてでも守らなければいけないものはいったい何なのでしょうか?
命よりも重要なものがあるのでしょうか?
それとも生き返りもしない死んでしまった息子らの命はもう重要ではないとお考えなのでしょうか?

声を上げなければ、何も変わってくれないのだと日々思い知らされています。
これらの答えが見つからない限り、ただ泣いているわけにはいかないのです。

 

 


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