遺族は納得していません。 通知が守られず事故が発生したこと、それが問題視されていないこと、そこに対策がないまま再発防止策が作られること。

息子たちの死に、意味を与えて欲しい

事故後初めて映画を観に行きました。

その映画は古代中国の話で、その話の中で沢山の人が死んでいきました。国を守るため、家族を守るため、自身の信念を貫くため、命を落とした理由は様々です。主人公の親友は、王を守るため、王の身代わりとなって若くして死にました。

映画やドラマの中では、若者の死には大抵意味があります。世界を守るためだったり、仲間を守るためだったり、夢に向かって巨大な敵に立ち向かって息絶えることもあります。

そう考えてみて、今回事故での8人の死には何の意味があったのでしょうか?

命を落とした意味

息子らは、「春山安全登山講習会」という「安全」という名を持つ講習会に参加し、顧問教員らの怠慢と不注意で命を落としました。

そこには何の意味もなく、死ぬべき理由を見出すことはできません。いろいろな物語や漫画の中でもこれほど無意味に死んでいく若者はいるでしょうか。ほとんど皆無です。息子の死は世界を救うためでもなく、夢を叶えるためでもなく、エベレストやマッターホルン登頂を目指したためでもありません。ただただ顧問教員らの怠慢と不注意で命を落としたのです。これほど悔しいことはありません。

さらに、その怠慢と不注意によって息子らの命を奪った教員は、すでに元どおりの職場に戻り、教壇に立っているとのことです。これでは、8名の命を奪う事故を引き起こしていながら元の職場に戻ることができたという悪しき前例だけが後世に残ります。8人死んでこの有様ですから、今後不注意や怠慢で一人や二人死んだとしても大丈夫だという安心感を持って顧問教員は部活動に励むことができることでしょう。

こうして息子らの死は、今後顧問教員たちが、今まで通り安全確認をしなくても安心して部活動を行うための安心材料となってしまうのでしょう。今後も大雪の日や、40度近い真夏日でも平気で部活動が実施されてしまうことでしょう。息子らの死によって学校現場に緊張感が増すどころかさらに緩んでしまう、そんな未来を許すことはできません。

顧問教員や栃木県教育委員会は、息子の命を奪っただけでなく、その死に何の意味も与えてくれません。息子らの死は運が悪かっただけで、何の意味もないものなのだと私たち遺族に突き付けているように感じます。

再発防止策は全て骨抜き

学校現場に緊張感をもってもらい、今後そのような事態に至らぬよう、教員の処分規定を見直すよう懇願し続けました。その願いは叶い、今後同様の事故を引き起こした場合、「免職」もあり得ると明文化し、処分規定を改定してもらうことができました。

しかし、その規定見直しの発表の場で、「処分の基準を今までから変えたわけではない。迅速に判断するために明文化しただけ。」と県教委の担当者がわざわざ発言し、発表したその場で骨抜きの規定とされてしまいました。この発言は、今後8名が死ぬような事故を再度引き起こしたとしても、今回と同様「免職」ではなく「停職」に処分をとどめるということを意味します。

さらに、他の再発防止策についても全て形式だけの骨抜きにされてしまっています。

「外部の専門家の意見を聞く」と言えば、山岳部の元顧問教員を長とする身内ばかりのメンバーからなる登山計画審査会を外部の登山の専門家として崇め、教員らに甘く自分たちに都合のいい意見を言ってもらうよう腐心しています。県教委がやっていることにただお墨付きを与えてもらうための組織をでっち上げているようにしか見えません。

「その山域に詳しい山岳ガイドを登山に同行させる」という対策は、同行が必要な山域を限定的にすることによって山岳ガイドが同行する登山はほとんど皆無となってしまっています。この対策は実施される前から形骸化し、すでに有名無実化しています。

対策の肝であるはずの登山計画の審査も、身内である登山計画審査会で安全と判断された山域への登山計画は審査不要とされ、申請された登山計画のうちの2割しか審査しない抜け穴だらけのものになってしまっています。さらにその2割の登山計画を審査するメンバーも身内ばかりの組織です。

実質的に何も変わらない、こんな対策に意味はあるのでしょうか。
息子たちの死に何の意味も与えてくれないこのような仕打ちは何のためなんでしょうか。

それほどまでに那須雪崩事故を存在しなかったものにして忘れたいのでしょうか。

遺族は息子の死に意味を見出せない

この先、何をされたとしても、息子が死ぬことによって遺族が得るものはありません。わずかばかり得るものがあったとしても、失われた息子の命に対しては何もなかったものと同じです。

先日の大津市の保育園児の列に車が突っ込んだ事故を自分のことのように感じ、涙いたしました。私がこの事故に対して涙し、幼い命が失われて未来が閉ざされたことに対する悲しみや残された遺族に対する共感や思いやる気持ちを得ることができたのは、那須雪崩事故があったからこそかもしれません。
その気持ちを大切にすべきだと人は言うかもしれません。しかし、人を思いやる気持ちも息子を失って得られたものだとしたらそんなものは私にとっては不要なのです。息子の死とは全く釣り合うものではありません。

遺族は息子が死んだことに何の意味も見出すことはできません。ただ悲しく、辛いだけの現実です。
そして、息子らの死に意味を与えることができるのは、加害者である県教委と教員だけです。

息子の死によって、部活動の在り方が変わり、安全対策が進み、未来の若者の失われるはずだった命が一つでも救われたとしたら、そこに息子の死の意味を見出すことができると思います。そうなることが遺族の願いです。

しかし、骨抜きで意味のない対策ばかりで、現状を変えようとしない栃木県教育委員会や教員になにかを期待することは難しいようです。未来の若者の命を救うことはできそうにありません。

いつになったら何も変えようとしない現状を改めて、息子らの死を無駄にしないようにしてくれるのでしょうか。いつになったら命を粗末に扱うことを止めてくれるのでしょうか。


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