遺族は納得していません。 通知が守られず事故が発生したこと、それが問題視されていないこと、そこに対策がないまま再発防止策が作られること。

事故から6年

那須雪崩事故から6年が経ちました。
今でも息子が亡くなった日を思い出すと、心が張り裂けそうになります。

命日である3月27日には、簡素ながらも七回忌の法要を行いました。
息子を失った後、通夜、葬儀、四十九日、一周忌、三回忌、そして七回忌と、私たちは儀式を重ねてきました。これらの儀式は、命が返ってこないことを受け入れ、遺族の気持ちを整理するためのものだと感じています。
しかし、これらの儀式を経た6年経った今でも心の底には息子が帰ってくることを諦めきれない感情が、まだ残っています。

お世話になったお坊さんからは「通常、四十九日法要の頃には遺族は気持ちを切り替えられたような顔をされるものですが、あなた方はまるで通夜のような顔をされており、掛ける言葉がありませんでした」と後になって言われました。これらの儀式を通して、私たちは一歩ずつ階段を上るように心の整理をしてきたつもりでした。しかし、子を亡くした親の場合は上るべき階段の段数が多く、いつまでも上りきることができないのかもしれません。

今でも、悲しみと喪失感が変わることはありません。

私たちの心はいつまでもその痛みを忘れることができません。
表面上事故前と同じように見えたとしても、私たち遺族の内面は以前とは全く異なっています。
ただ、その悲しみと喪失感を覚悟して受け止め、付き合っていくしかないのです。

親が子を失った喪失感は、大きく、執念深く、いつまでも消えることがないものだと感じています。

慰霊碑

私はこのゴールデンウィークの休暇中に大田原高校を訪れました。
3月26日に開催された追悼式で披露された息子たちの名前の刻まれたネームプレートをじっくりと拝見することができました。
追悼式当日は残念ながら雨が降っており、慰霊碑には悲しみが漂っていましたが、今回は春の陽光に包まれた優しい雰囲気が漂っていました。

ぽっぽ通り

その後、時間に余裕があったので、学校の周りを散策しました。

学校から少し西に進むと、「ぽっぽ通り」という通りがあります。かつてはSLが通っていた路線跡に作られた道で、西那須野駅から大田原高校付近まで続いています。

詳細は聞いていなかったため確証はありませんが、息子は高校時代、電車通学だったことから、西那須野駅から学校までこの道を通って学校に通うこともあったのではないかと思います。

私はこの道を歩き、息子が通学したであろう風景を眺めることができ、息子の気配を感じるような悲しくも心温まる瞬間を過ごしました。それは、よい休日の午後でした。


コメント

タイトルとURLをコピーしました