遺族は納得していません。 通知が守られず事故が発生したこと、それが問題視されていないこと、そこに対策がないまま再発防止策が作られること。

23歳

6月27日、今年も息子の誕生日がやってきました。もし生きていたら、23歳の誕生日を迎えていました。社会人になっていたはずの年齢です。しかし、残念ながら息子は16歳で亡くなりました。

事故当時高校生だった息子たちと同じくらいの年齢の人が普通に社会に出て活躍している様子を見る機会も増えました。先日話を聞いていただいた新聞記者さんから「この事故が遭った時には私は高校生だったので衝撃を受けました」と言われ、もう息子と同年代の方が取材の場に出てこられていることに私の方が衝撃を受けました。

先日の刑事裁判で証言してくださった息子の同級生と1学年先輩にあたる皆さんもスーツの似合う青年となっていました。しっかりとした口調で証言され、立派に成長された姿を見ることができ、それだけで胸がいっぱいになりました。

もし、息子が生きていたならこの方たちと同じように立派に成長し、社会に出ていたのかもしれない、どのような姿になっていただろうかといったことが頭を駆け巡りました。私の想像の中で今も息子は成長していますが、息子の先輩や同級生の姿を見て、私の想像が追い付いていなかったと感じました。

成長した息子の望み

息子は亡くなった16歳時点で、高校生になった自分はもう十分に大人だと思っていたかもしれません。しかし、もし23歳まで生きていたなら、当時の自分がまだ子供だったことに気づいていただろうと思います。

息子は那須雪崩事故で亡くなりました。もし生きていたなら、事故当時、自分たちにも落ち度があったのではないかと悩むことがあったかもしれません。しかし、大人になったであろう今は、そんなことを考える必要はないとわかるはずです。子供の安全は大人が責任をもつべきものだということを、自分が大人になることで理解できたはずです。

「教員を責任追及してどうするのか。亡くなった息子さんは教員や学校と争うことを望んでいないはずだ」という意見があります。しかし、それは事故の全体像を十分に理解していないか、あるいは教員や学校を批判することに偏見があるために言われる言葉だと思います。「教員や学校と争うことを望まない」のは、命があって、その後の学校生活や学校との関係を心配するための、生きている者の言葉だと思います。

息子が具体的にどのような考えを持っていたかは確かに想像するしかありません。
しかし、教員によって重度の障害を負わされた方が「先生を辞めて、事故と向き合って欲しい」と報道で訴えている例があるということは、教員に対する責任追及が必要な場合があることを示しています。このような事故が起こった場合、責任を問わないことは、教員や学校の責任を放棄することに繋がる恐れがあります。

息子は教員たちに対して責任追及することを望んでいると思います。
少なくとも事実関係を明らかにした上で刑事裁判でどのような判断が下されるのか結末を見届けたいとは思っていることでしょう。
責任が明確にならないまま事件が忘れ去られることを望むようなことはあり得ません。

裁判の結末に向けて

刑事裁判において、正当な判決が下されることを願っています。
明日、28日に判決が下される民事裁判についてもこの事故は人災であったと明言していただくことを願います。

また、それだけではなく、この判決をスタートとして、教員や学校が同様の事故を起こさないように、教育現場における安全管理や指導のあり方についての改善が行われることを望んでいます。これは、成長した息子も望むことだと私は信じています。

息子の誕生日を迎えるにあたり、息子を失った父親として、教員に対する責任追及の正当性と、安全意識の重要性を訴えたいと思います。心から願うのは、このような悲劇が二度と繰り返されないことであり、教育現場がより安全な環境になることです。

教員や学校関係者の方々に対して、私たちの悲しみや怒りを理解し、真摯に向き合っていただきたいと願っています。私たちは教育に対して期待と信頼を抱いていますが、同時に安全配慮が怠られた場合には責任を問うことも重要だと考えています。


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